江川氏による堀江氏のインタビューを読むと、すれ違いの多さが目に付く。これほど、聞き手の意気込みが空回りしている、取材対象者が聞き手の質問に乗ってこないインタビューも珍しい。

新聞記者出身の江川氏が、良くも悪くもジャーナリズムに対する思い入れ、使命感を前面に出しているのに対し、堀江氏のそれらに対する素っ気なさ。私も新聞記者経験があるので、私がインタビューしても江川氏と同じようなことは聞くだろう。堀江氏の話を読むと、江川氏を含めたジャーナリストの思い入れが何と独りよがりに過ぎないのか、読者のほとんどはこんな目でメディアを見ているのか、と深く考えさせられてしまう。

例えば以下のようなやりとりである。

―みんなが注目すると大きく扱われるが、埋もれている話を発掘できないのでは?
 埋もれていることを発掘しようなんて、これっぽっちも思ってないんですってば。そういうのは情報の受け手、興味を示す人が少ないわけですから。ニッチな情報なわけですから、いいじゃないですか。一応ネットには載せておきますから、(興味のある人が)勝手にアクセスして下さい、と。
―例えば、イラクのこととか、新聞ではもうあまり載らない。でも……
 いいんですよ、(そういうことは)みんな興味ないんですから。興味ないことをわざわざ大きく扱おうとすること自体が思い上がりだと思うんです。
―でも、提供されなければ興味もわかないのでは?
 そうじゃないと思う。興味がないことを無理矢理教えてもらってどうするんですか? 何の価値があるんですか、そこに。気づかせたら、何かいいことあるんですか、ユーザーの人たちに。気づかせることによって、新聞をとっている人に、何かメリットあります?
―知らないより、知っていた方がいいこともある。
 そうですかね。知らないのと知ることで、何か差異がありますか?
―情報を提供しなければ、興味を持つきっかけにもない。
 いいんじゃないですか、別に興味を持たなくても。興味持たないと、いけないんですか?


見事なまでの冷めっぷり。新聞、テレビ、ラジオといった既成メディアを持つことが目的であり、メディアの存在目的や中身についてはほとんど関心がないのである。「器」より「中身」こそ重要と考える多くのジャーナリストと、「器」を持つことそのものに意義を見いだす者との話がかみ合うはずもない。

これは、一口にメディア=媒体といっても、ジャーナリズムの「舞台」ととらえるか、情報を流す「経路」と考えるかの違いである。実際は両方の顔を持っているのだが、後者の価値観を突き詰めれば、堀江氏の言うように、情報の選択や価値付けをメディア側が行うのは、勝手な押しつけになる。情報の重要性を判断するのは、あくまで情報の受け手なのである。

ここで参考になるのが、Googleニュースhttp://news.google.co.jp/nwshp?hl=ja&gl=jpである。新聞社などのサイトから自動的に記事を集めてきて、見出しとともに記事の一部が表示されるのだが(米国で訴えられてますが…)、ここには価値判断は全くない。すべての記事が平等である。リンク先へ行って記事の詳細を読むのはあくまで受け手の価値判断による。

反対に新聞では、見出しの大きさやどの面に載るかは、送り手の価値判断で決められてしまう。新聞社側から言えば編集権の一部なのだが、受け手にとっては勝手な価値の押しつけとなるかもしれない。しかし、googleとどちらが読みやすいかと言えば、私は新聞である。堀江氏の言う「ゴミみたいな記事」がきっちり「ゴミ」として提示されている、「忙しければ読まなくていいですよ」と言ってくれているので楽なのである。放送なら重要度が高いと判断されたニュースから順番に流される。「ゴミ」は後回しにされるか、そもそも放送すらされない。

朝日が好きな読者は朝日の価値観でニュースを読み世の中のことを考えていれば楽である。読売も毎日も産経も一緒だろう。日経も同じだ。堀江氏は、ネットでニュースのランキング制度を取り入れる旨の発言もしている。もし紙媒体を発行するとすれば、ここでアクセス数が多い記事が、紙面に載るという。クリックすれば勝手に順番が付くとは言え、これには受け手の能動的な関わりが必要である。

堀江氏の考えは日本初の「読者が作る新聞」と言えなくもない。

江川紹子ジャーナル〜社会のこといろいろ〜
http://www.egawashoko.com/menu4/contents/02_1_data_40.html